時間
「な…っ!?」
アル・ワトソンは絶句した。
パタリと、手にしていた鞄が虚しい音を立てて足元に倒れ込む。
今日は立て込んでいた事件がようやく落ち着きを見せ、いつもよりも少し早めに帰宅できた。
夜勤を経て帰宅した久々の我が家が懐かしい…。
就寝までの束の間を、たまにはのんびり過ごそうと計画を立てた、まさに矢先のことだった。
現実とは信じ難い…。
と言うよりも、信じたくは無いと願わずにはいられない光景に、しばらくの間、金髪の青年は呆然と立ち尽くしてしまう。
ソファー周辺に食べカスが巻き散らかされ。
床には紅茶らしきシミが広がり。
キッチンではとっておきのアールグレイが紛失。
照明はつけっぱなし。
シャワーも出しっぱなし。
おまけに窓まで開けっぱなしと、なにもかもがいい加減に放置されていた。
イブの気まぐれはいつものことだけれど…。
前例の無い惨状に、開いた口が塞がらない。
「イブの奴…っ」
判断力の麻痺した脳内が回復するや否や、真っ先に同居人の姿を探した。
と言っても、狭いフラット内に自分以外の気配が無いのは一目瞭然で…。
怒りの矛先が不在なおかげで、おだやかで無い内心を必死に宥めながら、とりあえず同居人の尻拭いを開始した。
「いつもそうだ…僕を困らせてそんなに楽しいのか?悪趣味にも程がある…」
忙しなく手元を動かす間中、アルの呟く愚痴が途切れることは無かった。
…やがて、ようやく清潔感を取り戻した室内に満足した頃には、懐中時計が夜中を差し示していた。
せっかくの休息時間が台無しだ。
(帰って来たらどうしてやろう?)
不本意にかいた汗をシャワーで洗い流し、いつもならば同居人の定位置に腰を落ち着けてアルは腕組みをする。
ただ、頭ごなしに叱ったところで、反省する相手ならば日頃から手を焼く必要も無いのだけれど…。
だからと言って穏便な口調で下手に出れば、余計に調子に乗らせて逆効果を与えかねない。
なんとか良い対処方は浮かばないものか…?
ああでもない、こうでもないと思案している内に…妙な違和感を覚えて頭を上げた。
他意も無く向けた視線が虚空をさ迷う…。
この部屋は以前から、こんなにも静かだっただろうか?
住み慣れた部屋のハズなのに、何故だか不思議と居心地の悪さを感じてしまい、改めて周囲をアテも無く見回した。
職場では仕事に負われ、フラットに戻ればイブに振り回され…。
こうして静寂に包まれるのは、一体どのくらいぶりになるのだろう?
ぼんやりと天井を眺めながら、なんともなしに懐中時計を片手で握る。
「…今日は帰って来ないのかな?」
久しぶりに与えられた開放感と、隣り合わせで訪れた孤独感…。
無意識に漏れた呟きに、発した当人は釈然としない面持ちを浮かべた。
「別に、寂しくなんかないぞ…部屋が散らからなくて清々するくらいだ」
何故か前言を声に出して撤回すると、しばらく放置していた読みかけの書籍を手に取った。
静まり返った室内では、秒針が奏でる規則正しい音色がいやに響いて感じる…。
「……………」
5分ばかしが経過したところで、一向に読み進むことのできない書籍を閉じると、紅茶を淹れる為にキッチンへと向かった。
(そう言えば…イブはいつから出かけたんだろう?)
カップから立ち上る湯気にも似た様子で、ふわりと疑問が浮かんだ。
(シャワーを出しっぱなしにするくらい、慌てる理由があったとか…?)
芳醇な香りに落ち着きを取り戻したのか、巡り始めた思考が徐々に速度を増してゆく。
まさか…!?
(また何か事件に巻き込まれたとか?)
勢いよく立ち上がったおかげで、危うく手元のカップから紅茶がこぼれるところだった。
「Ibは悪を呼び込む」…不穏な言葉が脳裏を過る。
(まさか…いくらイブでも、そんな頻繁に………)
思いつく、できる限りの否定的な仮説を立てながら、まるで檻の中の熊の様にソファーの前を何度も往復する。
しかし、まとわりつく不安感を完全に拭い去るには、どれも不充分で決定打に欠けた。
(いつもいつも心配させてばっかりで…どれだけ僕に迷惑をかければ気が済むんだ)
顔面を真っ青に染めて動揺してみせたかと思えば、今度は真っ赤に染めて怒りを露にする…。
1人きりの室内で百面相を繰り広げる姿が、他人が見ればどれだけ滑稽だか知れない。
(部屋は汚すし…戸締りもしない…いつも自分勝手で…)
あれこれと苦悩している内に、ようやく落ち着いたハズだった怒りがよみがえったらしい…。
アル・ワトソンは、実に不似合いな形相でキツく奥歯を噛み締めた。
日頃の疲労が溜まっているせいか、感情の制御が安定しない。
蒼く澄んだ双眸が激情に揺れて…。
怒りが限界に達した。
「イブのバカ―――!!もう2度と帰って来るなぁぁぁ!!」
「そりゃあ悪かったな〜」
………え?
深夜にも関わらず、感情に任せた絶叫に何とも安穏とした返答が返された。
「イブ!?」
いつの間にか部屋の入口に佇む赤い服の子供は、視線が合うなりニヤリと笑みを浮かべた。
つくづく、人を馬鹿にした登場の仕方をしてくれる。
「こんな時間まで、一体どこに行ってたんだよ」
「深夜のお散歩ってところだ…よっと」
呆気に取られたままなアルの真横を素通りすると、いつもの場所を我が物顔で陣取った。
聞き慣れた声。
見慣れた仕草。
呼び慣れた名前…。
「腹へった〜」
最初は安堵感に浸っていたアルだったが、どうやら間の抜けた台詞に神経を逆撫でされたらしい。
少しでも不安を抱いた自分が馬鹿らしく思えて、気づけば理不尽すぎる同居人へ仏頂面を向けていた。
「なんだよ?オレが居なくてそんなに寂しかったか〜?」
定位置のソファーに身を委ねながら、茶化す態度にますますアルの眉間のシワが増す。
いまいち迫力の欠ける形相に、苦笑を浮かべられては威厳など立ちはしないが…。
「イブ…っ、僕のアールグレイ…」
「知らね〜」
いつもの会話。
いつもの光景。
いつもの…君。
頭上から浴びせられる小言をさらりと受け流しながら、すっかり冷めたカップの中身を残り香と共に、イブは一気に飲み干した。
#良呼さまから、誕生日のプレゼントにいただきました!
一人で百面相するアルが可愛かったり、アルをあしらうイブカが男前だったり!!
イブカ平然としておきながら、
でも内心嬉しいくせに!と、思わずツッコミいれてしまった私です。(腐)
|