+妄想(イタダキモノ)
続・ロンドンで一番暑い日


汗を流してバスルームから出れば、その人は完全にダウンしていた。
イブカがリビングルームを出た時、その人はキッチンでうがいと手洗いに余念がなかった。高らかにうがいをする生真面目な後ろ姿――その人が病院の跡取り息子と嘱望されていた過去を垣間見た気分にすらなった――をこの目で確かめたのだから間違いない。
この夏無理矢理取り付けたエアコンに適度に冷やされた部屋でイブカはミネラルウォーターをぐびりと飲む。
リビングのソファの上でその人は眉間に皺を深く刻んでいた。
ダイニングテーブルの椅子にかけようとして目測を誤ったらしく床にへたり込んだジャケット――この暑いのにジャケットを持ち歩くのはその人の癖で、イブカは内心呆れていた――。整理整頓を常とするその人らしからぬ所業だ。
「アル?」
イブカは小声でその名を呼ぶ。呻き声と共に、
「……ごめん」
と今にも消え入りそうな謝罪の言葉。
「何がだー?」
「……うん、迷惑かけて」
君、この場所好きなのに、と。
少し火照った顔にダイニングテーブルのアスピリンと水。
「軽い日射病っぽいな、頭痛と……。眩暈や吐き気は?」
「……ちょっと眩暈がするかな」
起こそうとした上半身をすぐさまソファに埋めてアルは瞼をきつく閉じた。
イブカをその陰にかばったアルは今日一日ずっと陽射しに晒されていたことになる。例年にない暑さと不慣れな冷房に参った身体には堪えたに違いない。
「ベッドまで歩けるか?」
訊ねれば、アルは緩く腕を振った。
「じゃー、そのままそこで休んでろよ」
イブカはタオルケットを取りに自室に入る。冷房の効いた部屋で寝るには今のアルは無防備過ぎる。逆に身体が冷えてしまうかもしれない。


眉間の皺が薄くなる。
アルの呼吸は次第に規則正しく寝息を刻む。
イブカはゆったりと動かしていた腕をさらに緩めながら、空いた手でアルの額に触れる。熱いとも冷たいとも言えない適温の心地。

昼寝をしている最中、祖母のハルが団扇で送ってくれた風は心地好かった。
それは単に涼しいからという訳ではない。
ハルの送る風だから心地好いのだ。

部屋に落ちた団扇で仰ぐ風は少しだけこの暑い夏を過ごしやすくしたけれども、エアコンを入れてしまえばその比ではない。
それはこのリビングルームも同様だ。

けれども、落ち着きを取り戻すアルの呼吸はイブカにとっても心地が好い。

イブカは団扇を仰ぐ手を休めることなく、大きな口を開けて欠伸をする。気持ち良さそうに微睡むアルを眺めている内にすっかりイブカの瞼も重くなってしまったのだ。


いつの間にか本格的に寝入ってしまったらしい。
少しだけ苦しい胸に気付いてアルは我に返る。浅いと思っていた眠りは案外深かったらしく、既に夕陽さえも部屋に差し込んでいなかった。
「ん……」
ぼんやりと重苦しい胸に目線だけ下方に巡らせれば、胸元に黒い髪が散らばっているのが確認できる。
イブカが床に座り込んだまま、頭だけをソファの上に乗せすっかり寝入ってしまっているようだった。

そよそよと、心地よい空気の流れを思い出す。
軽く頭を持ち上げて――頭痛も眩暈もすっかり治まっていた――床を覗き込めば、イブカの緩く手に握りしめた団扇がかろうじて視界に入る。いつか訪れた夏の日本でハルが寝入ったイブカを仰いでいた姿が脳裡を過ぎり、それはアルの胸を暖かくする。

「……ありがとう」
小声でそっと呟いて、そうしてアルは困惑する。
このままイブカを起こさずに、自分が身を起こす方法が思い浮かばない。
イブカは気持ちよく眠っているようで、寝息は先ほどからずっと一定だ。

――とりあえず、眠ったフリをしていればその内イブが目を覚ますかな?

アルは軽く首筋を伸ばし、そうしてゆっくりと瞼を閉じた。そうするだけで、眠った気分には浸れるだろう。



いつの間にか眠ってしまったらしい。
イブカが瞼を上げようとしたのとその人が軽く唸ったのはほぼ同時。
イブカは慌ててきつく目を瞑る。なぜだかとても気恥ずかしい。起きてまじまじと瞳を合わせることが照れ臭い。
だから、眠ってしまったのは不覚だったと、胸中秘かに後悔する。

――どうぞ、早くアルが何事もなく目を覚ましてくれますように……。

イブカは祈る気持ちでタヌキ寝入りを続けた。瞼の向こう側は暗く――既に陽は落ちたのだろう――、過ぎた時間はうたた寝どころではないだろう。気付いてしまえばなおさらに目を覚まし辛い。
そうして、寝たフリを続けるのはもっと辛いのだ。

――早く、目を覚ませよ。アルのヤツ……。

イブカは声には出さずに毒吐いた。

静かな部屋にはエアコンの低い電子音がいかにも厳かに響いていた。


ユウハさまから、残暑見舞にいただいた品です!
 「ロンドンで一番暑い日」の続きとして、書いて下さいました。
 ユウハ様の小説は、切なげで儚げなアルとイブカがいつも素敵過ぎです〜(涙)
 アルがヘタレになってしまって…とのコメントでしたが、
 実は私も、ああなるのではと思ってました…ごめん、アル。
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