SEQUENCE_01
舞台の幕がゆるゆると上がった。
これが最後の舞台である。暗く広がる空間からは様々な視線と沈黙が集結
し、彼を捕えていた。そうして一条の光の中の己の影をしばらく眺めると、後
は中身の抜け落ちた人形のようにその場へ崩れた。
これでいい。
この舞台の上で迎える終りこそが、最も自分に相応しい最後に違いない。
静まり返った彼の舞台は、鋭く発せられた女の悲鳴に引き裂かれ、ようやく
幕を降ろした。
* * *
「彼の意識はまだ戻らないそうだよ」
突如わきおこった背後の声に驚き振り返ると、そこには背の高い一人の男
が立っていた。三谷はこの端正な顔立ちの男を知っていた。篠原珪一とい
う名の、田嶋と同じ劇団の役者である。篠原の云う彼というのはもちろん田
嶋里志のことに違いない。
田嶋は先日この舞台の上で毒を含んで倒れ、三谷はそれを目撃した。
「きみは田嶋の友人だってね。それにしては、うちの舞台を見に来たのはあ
の日が初めてだったみたいだけど」
篠原は劇場のホール出入り口に立っていた三谷を、中へと押し込むように
ドアへと進んだ。はずみで三谷は数歩下がった。
「これが自分の最後の舞台だから、そう田嶋は云いました」
普段はあまり演劇など目にしない三谷である。しかしこの日に限って、田嶋
が三谷にチケットを渡して寄こしたのだ。
「彼は……その…あれは自殺だったんですか?」
三谷は押し出すようにつぶやくと、篠原を見た。しかしその篠原の顔に貼り
付いた表情が何であるのか、三谷には分からなかった。激しく刻一刻と表
情を変えた田嶋に比べ、この男の顔は幾つもの表情を静かに内に秘める
能面のようだと三谷は思った。
「さあね……医師の話では、彼の口にしたのは確かに毒物だが、致死量に
はまったく足りない量らしい。そういうのはきみの方が詳しいんじゃないのか
い?」
自分の方が詳しいとは、どういう意味だろうか。それは三谷の差し出した名
刺にこの病院の医師という肩書きが記してあったからか、それとも自分が
田嶋の友人という意味ととるべきか。もし篠原が後者の理由でそれを口にし
たのならば、それは大きな間違いだと三谷は思った。自分と田嶋とは、それ
ほど親しい関係ではない。少なくとも自分はそう思っている。
「ところできみ、きみはあの舞台をどう思った?」
篠原は、興味深げに三谷の表情を伺った。
「難解ですね。主人公の主観はかなり……非現実的でしたし。それに彼が
妄想に捕らわれ狂い始める表現には、多少消化しきれていないようにも思
えましたが」
「それはつまり、きみの気には召さなかったということか」
* * *
後ろ手で重い扉を閉じると、ひんやりと湿った空気の匂いが三谷を不快にさ
せた。いや、正確にはそれは不快ではなく、確かに覚えのある緊張感でも
あるような気がしたが、今の自分にはどちらでも良い事だった。
この暗く広がる空間には、隙間なく並べられた堅い金属椅子がある。そして
照明の先で演じられていたのは、妙に演技的なシェイクスピアではなかった
か。やがて白いスポットライトに浮かび上がった影が、ゆらりと揺らめき、鋭
い速さで縮み始めると足元に小さな塊だけを残して跡形もなく消え去った。
田嶋はいったいどこへ消えたのだろうか。
あのとき三谷はぼんやりとそう考えた。さっきまで照明の中央に立っていた
はずの田嶋の姿は、もう舞台のどこにもなかった。その影が倒れ行く田嶋
のものであったと気付いたとき、三谷は意識を失った。
* * *
三谷が田嶋を知ったのは、高校一年の学祭の時だった。
お祭り騒ぎの最終日、パンフレットをながめながらぼんやりと廊下を歩いて
いた三谷は、ふとそのペ−ジに目を止めた。
演劇部。
左腕をかるく伸ばし時計を見ると、パンフレットに記入されている開演時刻
からは既に三十分が過ぎている。迷ったあげく、三谷は講堂の前に立っ
た。
ひんやりと湿った空気の匂い。
暗く広がる空間にまばらに置かれた椅子、後ろ手で閉じられた堅く冷たく重
い扉、覚えのある……軽い緊張感。
だが照明の先で演じられていたのは、妙に演技的なシェイクスピアだった。
三谷は短く笑って、並んだパイプ椅子の列の一番後ろに腰掛けた。こんな
のは、たかだか高校生の遊戯なのだと知っていたはずだった。自分はいっ
たい何を期待していたのだろうか。
ゆっくりと背をもたれ、心地よい暗闇の中に三谷の意識が沈みかけた時、
低く呻くような悲壮な叫びがひびいた。
田嶋の声だった。
* * *
校舎の端に続く螺旋階段を下り、別棟の生徒会室へと行く道にここを選ぶ
のはいつしか三谷の習慣となっていた。
放課後のグラウンドからは、何度も重なる掛け声が届いて来る。
……気楽なものだ。
三谷は思った。本当はそうではないのかもしれないし、自分にはそうとしか
思えない。
階段を下り終えると、低い植込みのさつきに縁取られた、コンクリートの径
に向かってゆっくりと歩調を落とした。涼しげに開け放たれた窓の外を、い
つものように通り過ぎようとした時、激しく言い争う二つの声が三谷の足を
止めた。その一方の声には聞き覚えがあった。
田嶋里志。
どうして彼はこんな所にいるのか。あの時、学祭の舞台を見た三谷でさえ、
そう思った程だった。他の部員達の演技に、どんなにか田嶋は苛立ち続け
ていたことだろう。
今にも殴りかかりそうな勢いで、田嶋に向かい合っていた少年が声を荒げ
た。俺達だって、いっしょうけんめいやっている。
田嶋は勢い良くドアを開き、飛び出した。そして数秒。
三谷よりも僅かに小柄な少年は、目の前の人物に怪訝そうな顔を向けてい
たが、ゆっくりと向きを変えると、三谷の立っているのと逆の方向へ駆け去
った。三谷はその遠くなる後ろ姿を、見ていたくはなかった。それでも目を背
けることはできなかった。
既に、この道を通るのは、昨年の学祭以降の彼の習慣となっていた。
この演劇部の部室の前を。
どうして自分は、あの時講堂へ向かってしまったのか。なぜその扉に手を掛
けてしまったのか。
どうして。
あの田嶋の舞台を見ているのが、自分でなければならなかったのか。
* * *
彼に対しては、あまり良い印象はなかった。
その年の冬、三谷はある事故がきっかけで東京の高校へと転校した。何の
事故が原因かは自分でも良くわからない。そこだけが黒く穴のあいたように
記憶から抜け落ちている。事故のショックによる、一時的な記憶障害だろう
と医師は診断した。
あの学校にはこれといった未練もなかったし、父の勧めに逆らう理由もな
い。高校二年の冬を迎えていたため、生徒会の業務移行も至って簡潔に終
了した。最後の書類を教師に渡し終え、教室を去ろうとしたとき目の前を田
嶋の姿がさえぎった。
彼の右手は、なぜか痛々しい包帯で巻かれていた。
三谷は怪訝な表情で田嶋を見た。田嶋は少しむっとした様子で、白い包帯
のある自分の腕を突き出した。
「覚えていないのか」
問われた意味もわからず言葉に悩む三谷を一瞥すると、田嶋はそのまま
背を向けて立ち去った。彼についてはあまり深く考えたくなかったので、そ
れ以上の追求を三谷はしなかった。
転入先の高校生活を平穏に過ごし、大学の医学部を卒業後、三谷は父
開いた総合病院の医師として勤務した。時折、説明の付け難い焦燥感が胸
を過る以外、何一つ不満のない生活だといえた。
それは週刊誌や街角のポスター、人々の噂話に田嶋の名を聞いたとき、三
谷の内に訪れた。自分が自分でなくなるような、不可思議な感覚。ここにい
る自分が自分でないならば、本当の自分は一体どこにいる?
……ばかげている。
そんな三谷の元に、ある日差出人の名だけが記された一通の封筒が届い
た。添えられた便箋もなく、薄茶けたチケットの裏には鉛筆で 「これが自分
の最後の舞台だから」 との走り書きがあるだけだった。
三谷は迷った。
なぜ田嶋がこんなものを自分に送りつけてくるのか、理解できなかった。
どうしてこれ以上、僕を苦しめる?
今さら…… きみの手に入るものなど、ただの一つも残っていないのに。
* * *
「シェイクスピア? 違うな。あれは彼の中では、すっかり違う演目だった」
「どういう意味ですか」
三谷は疲れ切ったうろんな眼差しを、篠原へと向けた。彼にとってはもう何
もかもが、どうでも良い気分だった。どうでもいい。こんなのは、どうせただ
の夢なのだから。
「この世のわずらいからかろうじてのがれ、永の眠りにつき、そこでどんな夢
を見る?」
「だから……それは、シェイクスピアでしょう!」
「ああ、そして俺はホレーシオだ。覚えているかい?亡霊に心狂わされ、毒
の剣を身に死にゆく友の、憐れな物語を伝える男」
篠原が差し出した一冊の古びたノートに、三谷は震える指を伸ばした。
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