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「きみなんかに、会わなければ良かった」 全てが呑まれた闇に、きみの白い顔だけが刻まれていた。鋭い刃を持つ指 が自分の喉もとへと向けられるのを目にしながら、僕はきみの声は静かな 哀しい歌のようだと思った。 「そんなにも…… 僕の存在が許せないのか?」 僕の問いにきみは途切れがちに首を振ると、壊れそうな笑みを浮かべて再 びつぶやいた。 きみさえいなければ、僕は消えずにいられたのに。 |
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「これが、こう」 「うん?」 コンピュータのスクリーンに映し出された蛍光赤色のラインを、白く細い指 がゆっくりとたどる。 「わかりますか…この数値、絶対判断に狂いが生じている」 「向精神薬の類いか?」 「多分。特定インパルスの伝達を変化させる条件付けが、されているんだと 思う」 「麻薬……」 「あるいは、そうとも云えるでしょう。しかしその後に起こる自我能動性意識 の異常は…知覚、追想表象、思考、感情、欲望等の人格喪失感……」 「…おい…」 「だめだ……被験体に対するデータ量が少なすぎる…」 「田嶋っ!」 食い入るように、モニターへと顔を寄せた田嶋を、篠原はおもいきって引き 剥がした。思わず、その表情に背筋が凍る。 なんて顔を。 そのままの後ろ手で、パソコンの電源を落とす。 「……何を」 田嶋は肩をつかまれたまま、怪訝そうに彼を見上げた。篠原はゆっくりと腕 を引く。その手に細い骨の感覚が残った。 (また…細くなった…?) 「メシ」 「ああ、もうそんな時間。どうします、この辺で食べて行きますか」 「お前、ちゃんと飯くってんの?」 「は?」 椅子から立ち上がりかけた田嶋は、篠原の顔から肩へと伸ばした形のまま の腕に目を落とした。それから開きかけた口を閉じると、もう一度ためらい がちに口を開いた。 「…夢見が…悪くて」 病的とも云える白い顔を僅かに傾げ、田嶋は困ったように薄い笑みを浮か べた。ふと篠原は、最初に田嶋に会ったときにも、彼がこんなふうに云っ ていたのを思い出した。 (ちょっとした、睡眠不足ですから) 夏のけだるさが残る、まだそんな季節だった。 篠原珪一と田嶋里志は 、『Kの擬音』 という都内でも少しは名の売れた劇 団の役者として知り合った。当時の篠原には、田嶋の強い陽射しには不自 然な程の白い首など気に障る対象物以外の何者でもなかった。 道端にうずくまり、額にじんわりと汗をうかべる田嶋を見下ろしながら 「おお かた暑気にやられたのだろう」 と木陰へ押し込む篠原に、彼は同じようなど ことなく現実味のない薄い笑いを見せた。 篠原は軽く唇を噛む。 あれから一度も口にはしなかったが、田嶋はずっと悪夢に悩まされ続けて きたに違いない。なぜ気付かなかったのかが分かっているだけに、なおさら 篠原は自分に憤りを感じた。 |
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(覚えとりますわ、ひどい怪我だったそうですなあ。それであの総合病院にし ばらく入院しとりましての……) しばらくして田嶋と言葉を交わすようになったころ、彼がある総合病院につ いての話題に異常な関心を示していることに気付いた。 「何を調べている?」 篠原の問いに田嶋は、以前自分はこの総合病院へ入院していたことがある のだと云った。そして、その記録はどこにも残っていないのだと。 篠原は笑った。 そんなはずはない。身内にその病院に勤めているものがある、なんなら調 べてみてやろうか。それでは調べてみますか、と田嶋は軽く肩をすくめて笑 った。違法行為だとごねる従兄をなだめすかして……だが調べれば調べる ほど、篠原の頭は益々混乱していくばかりだった。 田嶋里志という人間は、どこにも存在しないのである。 確かに総合病院に入院していたのは、あの田嶋のはずだった。従兄の調 べてきた証言からしてもそれは間違いない。 だがそれ以前は? なぜ田嶋がここへ入院していたのかも、誰が田嶋に傷を負わせたのかも、 何一つ分からないのである。それどころか篠原は、彼の担当医やカルテさ えも見つけだすことができなかったのだ。 (そんなばかな事が、あるものか!) 思いも寄らぬ状況にがく然とするばかりの篠原が、ようやくあの夏の日に、 この非日常性の中へと篠原を踏み込ませた元凶である彼を思い出した頃、 再びふらりと田嶋は篠原の前へと現われたのだった。 「何か、わかりましたか?」 |
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今思えば田嶋は、総合病院の情報を持ち出すために自分と接触してきた のではあるまいか。篠原は田嶋に請われるまま、ネットワークを利用した情 報のクラッキングを行った。 ターゲットは? 「三谷弘史。 例の総合病院院長の跡取り息子で、今は医師」 |
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今回の 『Kの擬音』 の演目は、主役に田嶋の演技を収めて恐ろしいほどの 仕上がりを見せた。だが周囲の期待に反して、田嶋の表情は堅いままだっ た。 もう、終わりにしようと思う。 舞台初日を終えた夜、田嶋はそう篠原にきりだした。何か情報をつかんだ のか?いいえ、そうではありません。ただわかってしまっただけ。わかったっ て……いったい何が。 「夢を終わらせる方法」 「ゆめ……?」 「ねえ、信じられますか?世の中には、生まれた時から何一つ自分の思い 通りにすることの許されない子供がいて、その夢を喰らい続ける化け物が いるんです。それが僕の正体。でも…僕は、そんなものになりたかったわけ じゃない」 田嶋は小刻みに笑いを浮かべると、一冊の古びたノートを篠原の前に差し 出した。中を開くと、田嶋のものはない几帳面な文字でなにか…日記という よりも、むしろ物語のような言葉が淡々と綴られていた。 「さっぱり訳がわからないな、これは創作か?」 次々とページをめくりながら、篠原は眉をひそめた。僕ときみ。その一人称 と二人称しか登場しない文面と云うのは、意外と不気味なものである。しか もここに登場する二人は、常にぐるぐると夢と現実の立場を奪い合ってい るようだった。 「きみ…なんかに…、会わなければ…良かった……」 記された一文をなにげなく口に含んでみて、篠原は田嶋の顔を見返した。 「それ、日記です」 「これのどこが。これが現実なら、この世の現実はまるで夢の中だ」 「出口を求めてさまよってる?確かにそんな感じかもしれない。彼はこの現 実をまるで悪夢のようだと云っていた。きみなんかに会わなければ良かっ た。それは現実に、僕が三谷弘史に云われた言葉です」 「俺にもわかるように、説明してくれないのか」 三谷という男と田嶋、そしてあの総合病院には何の関わりがある?過去の 記録がない人間、変異原性、後天性の境界者……被験者の半数以上の者 が精神に異常をきたすために、実用化の見込みはない? 「ターゲットについて調べたデータ、あれはあなたは忘れたほうが良いと思 う」 「無理だ」 ごめんなさい…。田嶋はうつむいたまま小さく呟いた。 「その日記、あなたから三谷に返して欲しいんです。彼にはこの講演最終日 のチケットを送ってあるから」 |
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