+妄想
休日の過ごし方1 (妄想話)

メイフェアの南に位置する、ピカディリーの通り。
日本大使館も並ぶこのハイ・ストリートには高級ホテルが連なり、
買い物客で賑わうピカディリー・サーカスへと東に続いている。

「げっ!」

アルの隣を歩くイブカが、突然叫び声を上げる。
何事かと訊ねる間もなく、イブカは身を翻して駆け出した。

「ちょっ… イブ!?」

「オレ、よーじ思い出したっ!」

アルの制止など耳に入れぬまま、赤い服は人込みに紛れて消える。
それを呆然と見送ったアルが、溜息まじりの息を吐いた。

「まったく、いつも勝手なんだから…」

6月を迎えたロンドンは、1年のうちで最良の季節を迎えている。
気温も随分と暖かく、風も爽やかで心地よい。
こんな天気のいい休日には、誰だって外に飛び出したくなるだろう。
買い物に付き合ってくれというアルの頼みを、
イブカが簡単に受けたのは、それが理由だったのかも知れない。

そうして、いなくなるのも突然で――

アルが再び溜息をつく。
日用品や何やらと、仕事の忙しさを理由に遠延ばしにしていたそれは、
実際、かなりの量があるのだ。
仕方ないと諦めて先に行こうとした時、ふと背後に人の気配を感じる。

「リ、リー捜査官!?」

アルは振り向いて、驚きの声を上げた。
そこに立っていたのは、ダークスーツに身を固めたマオ・リー捜査官だ。
なるほど、それでイブは逃げ出したのか。

「……ワトソン警部補か」

不自然な間を空けて、アルに視線を落としたマオが返答する。
ダークグレイのシャツに、品の良いキャメルのパンツ。
少し大きめのジャケットに身を包んだアル・ワトソンは、
覚えのあるスーツ姿に増して、ヤードの捜査官には見えない。

マオは決まり悪そうに腕を組むと、イブカの走り去った方向へと視線を反らす。
それを見たアルが、申しわけなさそうに苦笑する。

「すみません。イブのやつ、さっさと逃げてしまって…」

「気にすることはない。私は、あいつに嫌われているからな」

「でも、いきなり逃げることないのに」

「逃げ腰なのは、君も同様だったと思ったが?」

「い、いやそれは、あの……」

目が合った瞬間、アルの足が反射的に数歩引いたのを、
マオは見逃していなかった。
面白いほどの動揺を見せた後に、アルが事実を認めて謝罪する。

「…ごめんなさい」

「気にすることはない、と言ったはずだ」

気にしてないならば、どうしてこんなに機嫌が悪そうなのかなあ…?
そっけなく答えるマオをそっと見上げて、アルが困惑している。
ひとまず、話題を変えた方がいいかもしれない。

「あの、リー捜査官は仕事でロンドンに?」

「そんなところだ」

会話終了。

助けてくれ…イブ。
思わずアルは、心の中でイブカに救助を求めていた。

「すまんな」

「…は?」

「今の君をワトソン警部補と認識して会話を続けるのは、
 私としては非情に困難を極めるのだ」

なぜか視線を反らしたままのマオを、アルがきょとんと見返す。
全然、意味がわからない。

「僕は、アル・ワトソンですが…」

「そんなことは分かっている」

知識では分かっていても、納得できないだけだ。
犯罪と暴力を相手に、ダウンタウンの路地裏で生きてきたマオにとって
この善良で育ちの良さそうな男の相手は、どうにも調子が狂う。
凶悪犯罪者やマフィア相手の方が、遠慮のいらぬだけマシと思えるあたりが、
スレた自分を認識せざるを得ず、自嘲の笑みが口元に浮かんだ。

「別に悪い意味ではない、気にするなアル・ワトソン」

無防備に目前へと立つ男に視線を戻すと、マオは3度目の同じ言葉を告げる。
調子は狂う…が、悪くはない。
周囲が敵で満ちた世界にも、たまには休日が必要ということか。

「では、私は失礼する」

マオは一方的にそう告げると、足早に立ち去って行った。
…相変わらず取りつく暇もない。
この点ではあの人も、イブカと良い勝負なのではないだろうか。
アルがそう考えた時、当のイブカがひょこりと姿を現した。

「マオのヤロー、行ったか〜?」

「イブ!? 家に帰ったんじゃなかったのか」

アルが安堵の溜息をつく。
買い物に付き合う約束は、まだ反故にされたわけではないらしい。

「けっ、オレはあいつと一緒が嫌なだけだ!」

「リー捜査官は、もうイブを捕まえないよ?」

「そういう問題じゃねー」

では、どういう問題なのだろう。
まじまじと、アルがイブカを見つめる。
その視線に気付かぬフリをして、イブカは通りの反対側にあるカフェを差し示す。

「アル、あそこで紅茶飲んでいこーぜ〜」

「そうだな、少し休憩していくか」

なんだか少し疲れたよと苦笑して、アルはイブカの後に続いた。

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