+妄想
forget-me-not 1 (妄想話)


2004年5月31日(月)

腕に抱えた白いユリの花束を、アル・ワトソンはその場所に供えた。
明るく澄んだ空気の中、まだ朝早い墓地に人の姿はない。


〔ロンドン ニュー・スコットランド・ヤード〕

「あ…」

外からロビーへと入ってきたアルが、
反対に外に出ようとしていたウルフと出会わせた。

「ウルフも登庁だったのか」

「せっかくの、スプリング・バンク・ホリデーだってのにな」

「でも確か、今度のホリデーは、休みだって聞いた気がするけど?」

「んー。ま、色々な」

ウルフが、がしがしと前髪をかき上げて視線を反らす。
本人が気付いていないそれは、いつも照れ隠しに取る行動だ。

アルが小さな笑いを漏らす。

パブリック・スクール時代から見てきた友人の性格を思い浮かべれば、
その状況は容易に想像がついた。
恐らくは同僚か後輩の都合に合わせて、休みを代わったのだろう。
彼らはこの連休に、家族との旅行でも楽しんでいるのかもしれない。

「何だよ?」

「何でもないよ、ウルフはこれから昼食?」

「ああ、お前は」

「僕は済ませて来たから」

そう答えたアルとすれ違う瞬間、ふわりと甘い花の香りがした。
見慣れぬ彼の黒いスーツから、微かに香る残り香。

ああ――と、ウルフが瞳を細める。

そういえば、そんな頃合だったか。


〔ワシントン・DC、FBI本部ビル〕

「6月中旬だったら、なんとか休暇の都合がつきそうだよ」

ラリーはそう云うと、
両手に持ったコーヒーカップの一方をマオに差し出した。

「そうできれば、助かる」

「礼を言うのは早い。
 今日中に、この件に決着がつけばの話だからね」

「わかっているさ」

マオは疲れを消すように笑って、コーヒーをすすった。

国際テロ組織への資金繰りの流れを追い、
ここ連日マオ達は、ネット上に罠を張り動き回っていた。
その情報が飛び込むのを、昨夜からずっと待っている。

「ロンドンか。あのIbは、今頃どうしているだろうなあ…」

すっかり夜の明けた窓の外を見つめて、ラリーが呟いた。


〔ロンドン チェルシー〕

「ねえ、アイリーン。
 アイリーンの髪には、こっちの色の方が似合うと思うの」

「そうかしら、少し子供っぽくない?」

「全然」

シアターのチケットがちょうど2枚あるの、今夜。
そう云って唐突にやってきた美咲は、
先刻から、ベットに並べられたアイリーンの服を楽しそうに選んでいる。

「よかったわ、アイリーンがちょうど休暇で」

「ミサは今、仕事でロンドンなの?」

「いいえ、わたしは休暇中。
 でもせっかくのホリデーなのに、ワトソンさんはお仕事なのね」

「そうなの〜、本当に残念だわっ!」

握りこぶしに力を込めるアイリーンに、美咲がクスクスと笑う。
雰囲気たっぷりに夜のドレスを身にまとい、
ワトソンさんと一緒だったらと、考えているに違いない。

「ワトソンさん、こういうのは苦手じゃないかしら」

「でも、古典には関心深いのよ」

「そうじゃなくて、恋愛もの」

二枚のチケットを、美咲が大きな瞳の前でくるりと回して見せる。
アイリーンは、がくりと肩を落とす。

「やっぱり…?」

「わたしは、好きよ」


〔アメリカ合衆国 ワシントン・DC〕

街角にあるカフェのオープンテラス。
コーヒーの香りに少し気を緩ませた時、彼が現れた。

「こんにちは」

淡いブロンドは柔らかく跳ねて、一房のみが後に長く束ねられている。
思い当たる人物は、確かにない、はずだ。

「…あなたは誰?」

――Secret.

人懐こい笑みを浮かべたまま、口元に人差し指をそっと添えて見せる。
僅かに気分を害した啓が、少し強気な態度で問う。

「それは名前を、明かせないってことかしら?」

「知れたら、きっと酷い目に合いますから」

「酷い目に合うのは、貴方? それとも私なの?」

彼は大きな緑の瞳を瞬くと、笑い声を上げて破顔した。
その明るい声に、啓の感情は行き場を失う。

(アルのクイーンズ・イングリッシュよりも、砕けているけれど。
 彼も同じイギリス人だわ…)

誰かに似ているような気が、しないでもない。
でもそれが誰だか、わからない。

「あなたは、何なの」

僅かに方向を変えた啓の質問に、彼は向かいの席を差し示す。

「座ってもいいですか?」

「選択権は、私にあるのかしら」

「心配しなくても、彼とあなたの間に座るつもりはありません」

「彼?」

「可愛いですよね、あの人」

「あの…それってまさか、マオのこと?」

啓が、怪訝に眉根を寄せる。

「聞いてみたかったんです、どうして見ているだけなのかって」

ささやく彼の表情が、場面を切り替えたように変化する。

「欲しいものは、奪い取ればいい。
 あなたにはその魅力が充分あるのに、
 どうしていつまでも、彼を自分のものにしないんです?」

不躾な質問に、やがて啓がゆっくりと口を開いた。

「諦めの良い女でいるわけじゃない。
 でも彼を手の届く場所だけに、閉じ込めて生かすなんてできないわ」

「それであなたは、満足なんですか?」

「満足よ」



何気ないフリをして帰宅したアルが、
見慣れぬ黒いスーツ姿で、今朝どこで何をしてきたかは知っている。

オレ達に気遣って、毎年黙ったままで。
親族に気遣って、一日早くに誰もいない場所で。
白いユリの花束を抱えて、あいつの前に甘い香りに身を浸して立つ。

「腹へった〜」

けれども全部知らない素振りで、
イブカは沈みこんだソファーの中からワガママに声を上げた。

次へ 戻る