+妄想
forget-me-not 2 (妄想話)


2004年6月1日(火)
〔サウス・ケンジントン、アル・ワトソンのフラット〕

イブカが気だるげに、自分の部屋から出てきた。
フラットの主は、とっくに出勤している時間だ。

食べ物を探してキッチンに入ると、
テーブルの上に置かれた小さな紙包みを見つけた。
中にはカラフルな色味のファッジが、ぎっしりと詰っている。
ブレック・ファースト用のパンを並べておくような気安さで――
カードも何も添えられぬそれが、何を意味するものかを曖昧にしていた。

「あんたは、ずるいよな」

イブカが呟いて、ピンク色のファッジを口に放り込む。
アルらしい、卑怯なやり方だ。
柔らかに答えをぼかして、いつでも逃げ場所を用意して。

"Happy Birthday"

舌に広がる甘たるい味と反対に、イブカは表情を歪めた。
嫌味な程のタイミングで、〔シン〕がメールの着信を告げる。

「So what?」



そっけない返信は、想像の範囲内。

『That all――Just words meaning』

言葉通りの意味だ、と送ったメールに答えはなかった。

この世界から消えてしまえばいい。
そう強く望んだ人間が、
生きてここに存在していることを、今は感謝している。


〔アメリカ合衆国 ワシントン・DC〕

「あなたの信じる正義は、どこにあるんです?」

「私の信念の中に」

「それが、あなたの答えだと?」

「信念とは理想に向かって進む勇気だと、
 アル・ワトソンが、かつて私に言ったことがある」

「……」

「だがそれは、幻想だ。
 誰もが彼のように、純粋に生きることなどできはしない。
 理想を守るために信念を汚し、やがてはそれを見失っていく」

「だからこそ…
 あの人の内にあるものに、焦がれずにはいられない」

「それが、お前の答えか」

停められた車の側を、左右に挟んで立つだけの距離。
立ち去ろうとしたトムの背に、マオが銃口を向ける。

「待つんだ、トーマス・シンプソン」

「より多くの人間の、正義を守るために。
 理想を守るための力を、僕はあなたに与えることができる」

たとえそれが、悪の力だとしても。
だからあなたの望みどおりに、今回の事件は解決したんです。

「あなたはただ、見せてくれればいいだけだ。
 その信念が、どこまで汚れずにいられるかを――」

トムは足を止めると、鮮やかな笑みを浮かべて振りかえる。

「楽しませてくれるのでしょう?
 僕が、答えを失わずにいられるように」

「質問の相手を、間違えるな」

「これ以上、先輩には迷惑を掛けたくないんです」

「私はワトソンのように甘くはない。
 お前が危険と判断すれば、いつでも排除できる」

「あなたに僕は、撃てませんよ」


〔ロンドン マイル・エンド〕

「どうしたの、それ!?」

いきなり部屋を貸せと潤のフラットに押し入ってきたイブカが、
次に部屋から出てきた時には、すっかり赤から黒く変わっていた。

正確に云えば、上下の赤い服が黒に変わっている。
ヘッドフォンと靴は、いつもの赤いままだ。
だがそれでも、見慣れた姿とは随分違って見える。

頭の先から足の先まで、まじまじと見つめる潤に、
イブカが上着の内側を開いて見せた。

「リバーシブル?」

内側はいつもの、赤い服だ。
つまり赤が黒になったのは、服を裏返して着ただけだったのか。

「それ、どうしたの?」

「変装用に作ってみた」

「変装?」

「じゃ、な〜」

イブカは窓から小雨の降る屋外に身を乗り出すと、
〔クモの糸〕を使って、身軽に屋根へと登っていった。


〔セント・ジェームズパーク近くの、レストラン〕

昼食はまだだと云いIT課のパソコンに向かったままのアルを、
ウルフとアイリーンが無理矢理ひきずるような形で外に連れ出した。
それからいつものように2人で些細な口論をしていたが、
ウルフがランチに集中し始めると、ようやくそれも静かになる。

「昨夜はミサに誘われて、一緒にオペラを見に行ったんですよ」

少し猫舌だというアイリーンは、
チキンリゾットに添えられた生サラダをつつきながら、アルに話しかけた。
あまり動いていないアルの手元が、ゆっくりと止まる。

「へえ、ミサはロンドンに来ているのか。楽しかったかい?」

「とってもステキでした〜!
 ワトソンさんも、今度ぜひ一緒に行きませんかっ!?」

奇妙な表情を浮かべて、アルが向かいに座ったウルフに目を送る。
つられてアイリーンも、ウルフの顔を見つめてしまう。

「?」

「あー。お前また、古いこと根に持ってるのな」

ポークチョップを押し込んだ口を、ウルフが不満気に歪める。

「忘れたくても、忘れようもないよ」

「ウルフさん、何をやったんですか?」

「オレって決めんな!」

「昔エドと3人で行った時に、ぐっすり眠り込んだんだ。
 あれは、ものすごく恥ずかしかった」

「大丈夫です、ウルフさんは絶対誘いませんっ」

「行かねえよ!」

「あ…」

ごめんと断りを入れて、アルが携帯を取り出す。
彼が複雑な表情を浮かべてメールの着信画面を見つめる間、
ウルフとアイリーンは互いの顔を見合わせて、周囲に視線を送る。

「ちっ、うっとーしいぜ」

「ホント、邪魔だわっ」


〔スコットランド・ヤード、特捜部長室〕

いつものようにノックも疎かなまま、
乱暴に開かれた特捜部長室の扉から、あの男が飛び込んでくる。

「部長!」

「…ウルフか。何のようだね?」

「ちょっと部長に、頼みがありまして」

今度は、どんな厄介事を持ち込むのというのか。
渋面で迎えるレストレードに、問題の部下がにやりと笑いを返す。

「アルの回りにいる虫を、払って欲しいんですが」

「言葉の意味がわからんな。虫とは、一体何のことだね?」

「いつもは、イブ公の周りに張りついてる虫ですよ。
 今日はアルの周りをブンブンしやがって、うっとおしいのなんのって」

「うむ、そうだったかな」

あごに手を当てて、レストレードがとぼける。

「あいつは、お人好しで温厚な人間ですからね。
 イブ公の身の安全の為だって言われれば、
 自分のプライバシーなんてテムズ河に放り込むでしょうが
 残念ながらオレは、友人の自由を侵害されて平気でいるほど温厚じゃないんです」

「しかし現在、あれの所在がはっきりしないという報告が――」

「じゃあまた不運なSSと捜査官が、酒場の喧嘩に巻き込まれるかもしれませんね」

「それは、どういうことだ?」

「言葉通りの意味です、レストレード部長」

不敵に笑うウルフを見て、最悪の予測がレストレードの頭に浮かびあがる。

「まさか、君が以前に喧嘩騒動を起こした際に…」

「だからそれは、単なる不運な事故ですよ」

意図はないという言葉に、あからさまに含まれる脅迫。
レストレードは小さくうめいて、額を押さえた。

「英国内から出ておらぬという報告だからな…まあ、そのぐらいは良かろう」

「さすが部長、話がわかるぜ!」

「ところで、ウルフ」

「何です?」

自分の用件を述べて早々に部屋を立ち去ろうとしていたウルフが、
扉に手を掛けたまま、レストレードの言葉にふり返る。

「今日が何の日だか、知っておるかね?」

「もしかして、始末書の提出期限切れですか?」

「……早く提出したまえ」

レストレードは、深々と溜息をついた。



Tuesday 1st June 2004
Sunrise 4:49 BST
Sunset 21:07 BST



最初に気付いたのは、
いつもこの日に限ってイブの姿がないことだった。
僕たちが出会ったあの日から、翌年も、その次の年も。
まるで計画していたかのように、見事に行方をくらませて。

いや、そうじゃない。
恐らくそのために、この日を選んで消えていた。

ベイカー・ストリートにあるジャック・ホームズ氏のフラット。
この場所は何もかもが変わらずに、
まるで4年前あの日に時間が戻ったかのよう思える。

「やっぱり、ここにいた」

ドアを叩いたアルは、強張った表情に笑みを浮かべた。
開いた扉の隙間からは、予想通りにイブカが顔を覗かせる。

「…なんだ、あんたか」

イブカは興味のない様子でアルを迎え入れると、
書斎の中央に置かれた骨董風の椅子に、膝を抱えて座った。

部屋の中は薄暗い。
鏡台、本棚、暖炉、古い机――
時間の止まった部屋の中は、すべてあの日のままに残っている。
恐らくここにないものは、部屋の主だけで。

「誰だと思ったんだ?」

イブカの蒼い瞳が、
暖炉の上に灯されたオレンジ色の薄明かりを映して揺れる。

「ジャック」

「えっ?」

アルは、思わず背後へと首を巡らせた。
それを見たイブカが、シニカルな笑いを浮かべる。

「ジャックの幽霊が恐いか?」

「恐いよ。君や、トムを連れて行くんじゃないかって」

イブカはきょとんと目を見開いて、一瞬言葉を失った。
だがすぐに、薄い笑いを取り戻す。

「それよっか、あんた何しに来たんだ〜?」

アルは曖昧に笑って答えぬまま、「君は?」と聞き返す。
だからイブカも聞こえないふりをして、椅子に身を沈めて目を閉じる。

「そろそろ時間だ〜」

アルの背後で、扉が開く。
飛びあがりそうになりながら、アルは驚き振り向いた。



「トム…」

扉を開けて立っていたのは、トーマス・シンプソンだった。

久しぶりに出会った後輩は、元気そうな姿で安心したのは事実。
二人がたまに連絡を取り合っていることは、前々から察してはいたけれど、
嘘のように出来過ぎた目の前の現実に、アルはどうして良いのか分からない。
それに…

「二人とも… ここで、何をしてるんだ?」

「ジャックに嫌がらせパーティ、かな〜?」

「先輩も、どうぞ」

トムが皿に盛ったケーキにフォークを添えて、アルに差し出す。
書斎の小さなテーブルの上に並んだケーキ、淹れたばかりの紅茶。
イブカは既に口いっぱいに、ケーキを頬張っている。

「うめ〜」

「当たり前だろ、自信作だぞ」

「あ、あの… これ、トムが作ったの?」

「そうですよ。 しっかり、味わってくださいね」

いや、聞きたいのは、そんなことではなくて。
今どうしているのかとか、どうしてここにいるのかとか…
状況に流されたまま、ケーキの皿を抱えたアルが困惑する。

「先輩、紅茶はダージリンで良かったですか?」

「相変わらず、過保護だぜ〜」

「うるさいな、自分が構ってもらえないからって」

けっ、とイブがつぶやいて、再びケーキを口に頬張る。
トムはそれを無視して、ティーカップに紅茶を注ぐ。

さっきまでイギリス国外にいたんです。
だから今年のチェルシー・フラワーショーは、見学できなくて残念でした。
ああ、New Scotland Yard なんて誰かみたいに赤くてトゲだらけのバラよりも
先輩には白くてトゲのないバラの方が似合うと僕は思うんですけれど。

途切れなくトムが話し続けているうちに、
アルは静かな寝息を立てて、椅子の中に沈みこんでいた。
その肩にショールをかけて、トムが本心を耳元にささやきかける。
I miss you ――

「お前、アルの紅茶に何か入れただろ」

「軽い睡眠薬の類だよ」

「それで目覚めたら、夢だって思うか〜?」

「思わなくても、そうしてくれるさ。
 それより驚いたぞ、どうしてここに先輩が来たんだ?」

「知らね〜」

頭の後ろに腕を組み、イブカが背を傾ける。
どうしようかと考えていたところに、ちょうどトムが現れたのだ。
眠るアルに目を落としたまま、トムが息を吐く。

「ずっと分からなかったんだ…。
 どうして先輩は、毎年あんなところに行くのかって」

「ああ、ケンカ売ってたのかもな〜」

「僕たちを、連れて行くなって?」

薄暗い部屋の中には、クスクスと小さな笑いが漏れる。
アルの側を名残り惜しげに離れて、トムはイブカに告げた。

「じゃあ、また来年ここで」

「ああ」

「Happy Birthday」

「お前もな」

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