+妄想
優しい毒16 (妄想話)

外は既に暗くなっている。
啓の計らいで、アルは警視庁での状況説明も半ばにホテルに戻ってきた。
いなくなったイブカの行方が、心配だったからだ。
ウルフの予想通り、アイリーンは程なくイブカを見失っていた。
ホテルで待っていたアイリーンが、アルとウルフの姿を見つけて走り寄る。

「ごめんなさい、ワトソンさん…」

「いや、アイリーンのせいじゃないよ」

萎れた様子のアイリーンを、アルが弱々しい笑顔で慰める。

「このまま、どっかに消えちまうかもな」

ウルフがアルに告げる。
気紛れで行方をくらませる、イブカの行動パターン。
それは、アルも予測はしている。

「でも、事件はまだ…」

終わっていない、と言いかけて黙り込む。

「どうした?」

ウルフが、アルの様子の変化に気付く。
視線を追うと、見たこともない青年が向こうに立っている。
日本人とは、少し離れた顔立ちだ。

「知ってるヤツか?」

「いや… 前にも一度、ここで見たことがあるけれど…」

あの時彼は、イブカを見ていた。
優しさと悲しみが入り混じる、不思議な微笑を浮かべて。
あれから何かが、アルの心に引っかかっている。

「ジュンと同じぐらいかな…
 わからないな、日本人の年齢は見た目難しいよね?」

「…そうか?」

別に日本人だから、というわけじゃねえと思うんだが。
ウルフは、カレッジの学生としても充分通用しそうな友人に目を向ける。
アルの問うような視線を受けて、青年は小さく頭を下げた。

どこかで見た表情だ。
それにアルが気付いた時には、すでに彼の姿は消えていた。



ホテルの屋上で、イブカは蒼白い月を眺めている。

「キレーな月だ〜」

団子がないのがザンネンだ。
イブカの呟きに、〔シン〕がメールの着信を告げる。
やあ、Ib。
あの夜のように月は綺麗かい?
いつだって、きみは僕らの頭上にいるんだろうな。

「へへっ、今はホテルの上の上。 病院じゃねーけどな〜?」

再びイブカの耳元で響く、着信音。
短いメッセージ。
きみを追いまわしていたあの男は、デリートされたよ。
さて、自殺か他殺か?
イブカの蒼い瞳が、冷たく光る。

「どっちだって、キョーミね〜」

返される笑い。
クイズの答えは、案外つまらない。

「それよっか、オレもイイコト教えてやるぜ?」

イブカが〔シン〕に、ささやきかける。

「フェアリードに、ワクチンは効かねーんだ」



警告音と共に、イブカの流したフェアリードがマシンを支配していく。
柔らかなカーキー色の髪をかきあげて、彼はネットの向こうに苦笑する。
Ibを巻き込むことで、そうなるリスクは予想していた。

フェアリードの〔ワクチン〕。

あの若い研究者は、自分達の作ったウイルスが悪用されるのを恐れていた。
だから〔それを監視して感染を防ぐための手段〕を提供し、
純真な背を少し押しただけのこと。
フェアリードの名が重なったのも、最初から偶然なんかじゃない。
Ibはそれを知っていて、ゲームを楽しんでいる……相変わらず意地が悪い。

「ではフェアリードのお礼に」

彼はキーボードに指を滑らせると、短いメールを作成する。

「Ibには、特別なウイルスを送るとしよう…」

〔送信〕をクリックすると同時に、マシンが完全に黙り込む。
その間にも、マシンに侵入して情報を読み取ったフェアリードが、
今回の事件に関する先へと流れて行ったに違いない。

この世に残る痕跡を、全てデリートするために。



携帯電話のコール。
アルが飛びつくように、ポケットへと手を伸ばす。
僅かな期待を裏切り、答えた相手は啓だとわかる。

『アル、例の大学教授が亡くなったわ!』

「えっ!?」

短いやり取りの後、アルは啓との通話を切った。
同時に、メールが一通着信する。
差出人の名前はない。
今度は懸命に期待を押し殺して、そのメールを開く。

【 屋上で凍ってる Ib 】

アルの顔には、困惑の色が浮かんでいた。

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